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1.コルチャックの幼年時代

おばあちゃんはほしぶどうをくれながら「あなたは哲学者よ」、とよく言ってくれた。あんな昔の昔、私は世界を変える重大計画を祖母にだけ打ち明けていたようだ。
計画自体は、全財産を投げ出すとの簡単なもので、それは当時、自分が一緒に裏庭であそぶことを許されなかった、汚れ・飢えたボロ着の同年輩の子どもを、どうすればこの世から無くすことができるのか、との心配からきたものだった。(ゲットー日記より)

母はよく言った。『この子は本当に消極的だわ。何を食べるか、何を着るかもちっとも気にせず、もし同級生や管理人の子どもと遊ぶとしても,はずかし気なく年下の子ばかりを選んで……』 (ゲットー日記より)

2. 研究時代

1986年,18才のコルチャックは、ワルシャワ大学医学部小児科に入学。1905年、医学士となる。
1898年、狂って死んだ父を提示した戯曲「いかなる道」で、パデレフスキー特別賞を受ける。この時から、ペンネーム「ヤヌシュ・コルチャック」を使い始める。
1904年、日露戦争に従軍。この間、戦火に苦しむ子ども達を目撃し、孤児問題、教育問題の研究を続けた。
「世の中には、2つの王国があります。一つは、何世紀もの間裕福で、幸福で、怠惰な子どもたちが「王子様」と呼ばれていた王国です。しかし、飢餓、紛争,重労働でできたもう一つの王国があることを忘れずに。その王子達は、幼年の頃から、パンの値段、幼い弟や妹の面倒をどうやってみるのか、どうやって働くのかを、知っていました。」(ヤヌシュ・コルチャック)

3.
ポーランド人のための孤児院
ナシュ・ドム
4.
ユダヤ人のための孤児院
ドム・シュロット

5-6.ホームの生活

  • 子どもたちのベッド間の敷居は真中が低くなっており、もしある子が悪夢におびやかされたり、さみしい時には、となりの子が面倒をみれるようになっていた。
  • 一人ひとりの子どものために、自分の大切な物をしまえる引き出しが設けられてあった。この中には、ビー玉、メンコ、人形など、自分の宝物と思えるものが大切にしまわれていた。
  • そうじ、食事の用意、病気の子の看護、畑作業などは、全て子どもたちの手でまかなわれた。

私は、孤児院での仕事が気高いもの、下品なもの、意義あるもの、バカバカしいもの、きれい事、汚れ事との区別、また、若いお嬢さんに向いているとか、下級の子に向いているとかの差別をつけぬよう、仕事とは、力仕事だけではなく、また、頭をつかうだけのものでもないことを教えるために闘った。(ゲットー日記、1942年7月27日子ども新聞のために書かれた)

手を貸して……、全身を込めて……、そんなにベラベラ何だ。……重いぞ、しっかり引っ張れ!……その調子! 長舌と手ぶら沙汰……これこそ恐ろしい……本当に恐ろしい。(おもしろ教育学)

7. 教育者へ

  • 決まりきった教え方をしている教育者が、途中で自分のやり方を切られると腹を立てるかもしれないが、変化なしでは仕事は意味なくつまらないし、その教え方には生命が入っていないことを知るべきである。(夏期学校より)
  • 子どもの汚い足を見て、吐き気をもよおす先生たちがいたら、他の仕事をお探しください。(夏季学校より)

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14.子ども新聞 /ラジオ放送  

コルチャック先生は,子ども達の意思表示、意見交換、そして大人へのアピールの場所として、子どもの新聞「小評論」を発行した。また、子どもたちへのラジオ放送も行った。

私個人の意見ですが、教育施設内に新聞を持たないということは、目標やおもしろさを失わせてしまうという不満を教師たちにもたせてしまうことです。
新聞は、子どもたち、教育者、そして用務員さんたちを一体にし、その週と次の週をうまくつなぎ合わせる母体となるでしょう。当新聞は、生徒たちによって声をあげて読まれるべきです。(コルチャック)

13.子どもたちへの本

なんてすばらしいんだろう……本とは。
賢い偉人たちが発明したすべてが本には書いてある。もしかしたら、その人は書くために全生涯、いや百年ぐらいをも 費やして 考えたかもしれない。
マットは1時間読み、すでに知恵を獲得した。(孤島の王様マチウシ)

私は、独裁主義と精神的奴隷が力を占め、ヒットラーニズムとよばれる狂気がすべてを支配下におさめつつあるこのときに、意識して「ルイス・パスタの生涯」を書いた。いま育ちつつある子どもたちに、今まで、そしてこれからも違った真実の人がいるんだろうということを知ってほしかった。(魔法使いのカイトウシ)

コルチャック先生の主な作品

モシキとヨシキとスルレたち

1910年
ユジキとヤンキとフランキたち 1911年
栄光 1013年
子どもを愛するには 1918年
ただ神とともに…祈らぬものたちへの祈り 1922年
王様とマチウシ第一世 1923年
孤島の王様マチウシ 1923年
小さなジャック君の破産 1924年
いま一度子どもに帰れるとしたら 1925年
子どもの権利の尊重について 1929年
魔法使いのカイトウシ 1934年
聖書の子どもたち 1934年

12.記憶の絵はがき

コルチャックは、時をみてはホーム(孤児たちの家:ドム・シュロット) の子どもたちのために手書きのメッセージをそえた「記憶の絵はがき」をプレゼントした。

面倒見のよい者、仕事を一生懸命に手伝った者、またよく学習に励んだ者などに送りました。ある時は、戒めのためにも送った。絵はがきの絵は、プレゼントの背景に合うよう選らんでいる。

冬、ベルと同時に起床した子には……冬景色を

春には……春景色を

ポテトの皮むきをたくさんした子には……花束を

小さな子や新入生の世話をした子には
           ……ありがとうカードを

けんかをしたり、わめいたり、口論する子には
              ……虎のカードを

責任を一生懸命果たした子には
           ……ワルシャワの景色を

ホームを去る子には
   ……最後の記念として生徒や級友のサインをした「忘れな草のカード」を   etc.

「カードは賞ではなく、いつものものぐさを記念するためのものとして、ある子はいつかそれをなくし、ある子は大切に守ってゆくであろう」(教育者の証言)

11.コルチャック先生のカルテ

コルチャック先生は、子どもたちの健康管理に関しても定期的にきめ細かく身体検査を行い、一人ひとりのカルテを作っていた。 

孤児たちの制服の下には、いくつもの小さな心臓が鼓動している。一つひとつ違った力強さで、どれも異なってつくられ、互いに自己の恐れと望みを持って……(How to Love Child)

10. 子どもの自治体

◎新入生
一生徒が3ヶ月間、新入生の保護者になります。その生徒は、生徒議会にその子の保護者になる申告をします。全生徒は、当議会で新入生のためにいろいろな質問に答えられ、アドバイスができ、また必要時に保護ができるように、最も適応した生徒を投票によって決定します。

入学して約一ヶ月後、新入生はそのメリットを当議会で検討されます。そして、投票によって在学の可否が決定されます。

入学して約一年後、当新入生は今一度そのメリットを上記のように再考します。孤児院の正式メンバーになった子どもは、14才までにずっといるか、出て行くかを自分自身で決定することができます。

◎クラス・ルーム
クラス・ルームにはベルはなかった。授業は、生徒たちが興味を示している間中続けられた。

クラス・ルームでは、決められた椅子や机はなかった。子どもたちが日常、自然に座ることになっている席へ自由に着くことができた。

生徒は授業中、自由にクラス内を動くことができた。

クラスを出ることも認められていた。普通は、疲れたときや、何か難題が起きたときだったが、その子は、「静かな部屋」とよばれる別室へ行き、休んだり、一人で難題に集中力を傾けることができた。そこには興味深い本が重なり、アルバムも地図も百科事典も、その他イヤホン付きのラジオさえあった。

週に一度、子どもたちによって提案されたサブジェクトに関する活動に使われた。

一般的な点取りの代わりに、やり遂げた各課題に対するポイント・マークのシステムが紹介された

  • 9. ステファ夫人

    ステファ・ヴェルチンスカは1886年、コルチャックと同様、ポーランドに同化した裕福なユダヤ人家族の家に生まれた。高校卒業後、ベルギーとスイスに留学。自然科学と教育学を学び、孤児院でボランティアの活動をしていた。
    1911年、完成された「孤児たちの家(ドム・シュロット)」に50名の孤児をひき連れて移り、以後、コルチャックの右腕として活躍する。
    彼女は1931年と1936年に訪れたパレスチナに一時移民し、キブツ・エインハロッドで子ども教育に携わる。第2次大戦勃発前の1939年、コルチャックと孤児達をパレスチナに移す目的でワルシャワに帰るが、コルチャックと行動を共にし、1942年8月、全孤児と共にトレブリンカに消える。

    私は,すべての欠点をひとまとめにした「父」……、すなわち、忙しすぎて時間に欠け、物語はうまい方なのだがほとんど話す時間もなく……。ステファ夫人は「母」、時には彼女自身間違うこともある。ただ、彼女なしでは、全員立ち往生してしまう。(ゴールドシュミット/コルチャック)

    人は元来教育者ではなく、条件や状態、雰囲気をつくることによって教育を作用させ、活発な教育へと影響させる媒体なのです。(ステファ・ヴェルチンスカ)

    彼は、特有のイマージネーションで、彼女は、自前の論理的で熟練した方法を通し、しかし根本的には、2人は互いに確かめ合ったプランニングで、お互いの良点を美しく生かしていた。(教育者の証言)

    8. 孤児院の子どもたち

    自分に問い聞きながら、私はいとおしく子どもたちを目で愛撫する。
    君は誰れ? そのすばらしい秘密は? 何を持って来たのかね? どうすれば私たちは君を助けられるのかね? と。(子どもを愛するには)

    もし、子どもの価値を甘んじるなら、あなたは決して子どもたちを理解することはでき得ない。(子どもを愛するには)

    友人のシモン君は別として、僕達はステファ夫人には敬意をはらっていました。コルチャック先生が2階の書斎から降りてこられるたびに、皆はひよこのように先生の回りに集まった。時として、ただ先生のそばに立っているだけでも何かうれしく、誇りに感じられました。タバコ作りをする先生の回りに座って、いろいろ話を聞くときは最高だった。
    イッツァック・ベルフェル(1995年7月談)

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    コルチャックがイスラエルのキブツを訪れたとき、まだ少女だったアザ・ロネンさん。コルチャック先生に魅かれいつも先生の側についていたという。そして、自分も大きくなったらコルチャック先生のような先生になろうと思ったという。<18>
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    16-17サマーキャンプ

    コルチャック先生は,1910年頃から、ユダヤ人、ポーランド人青少年のためのサマーキャンプに、カウンセラーとして参加し、貧しい子や孤児たちと寝居を共にし、その後も同キャンプを毎年続けている。

    私はこの4週間を「地下室と屋根裏」の子どもたちの集まりを何とかして喜びに包まれ、一粒の涙もない夏の祭日にしようと一生懸命だった。
    子どもたちへ向かって話すのではなく、子どもたちと一緒になって語り合った。それも、私が子どもたちに向って何になってほしいということではなく、何に彼らがなりたいのか、そして何ができるのか、ということだった。(夏季学校より)

    きのうまで原始人みたいにおびえていた子どもたちが、今はもう楽しい友達になっている。臆病で、おどおどし、ちょっとも笑っていなかった彼らが、一週間後の今、勇敢で、陽気で、エネルギーにあふれ、歌さえうたってはつらつとしている。(夏季学校より)                                          

    ここで初めて子どもたちはスキやクワを見、また牛がミルクを絞られるのを目撃した。彼らは最も美しいことの一つを見つけた。それは、子馬だった。<モシキとヨシキとスルレたちより>

    18-19 パレスチナ訪問

    コルチャックはヒットラー台頭の1932年、パレスチナを訪れている。また、1936年には、ステファと共に訪問している。反ユダヤの嵐が吹き荒れるポーランドから孤児院を移す下見も兼ねていた。しかし、この計画は、ステファの熱心な助言にもかかわらず、実現しなかった。コルチャックは帰途に就いた。いつかエルサレムに住み、旧約聖書の物語を書くことを夢見ながら。
    「私は、いつの日か残り少ない日々をイスラエルでポーランドに恋しながら過ごすことの夢をまだ捨てていない」(友人への手紙より。1932年)

    <当時を回想して、アザ・ロネンさん。1995年6月談>
    「ワルシャワから大先生のコルチャック先生がいらっしゃって、キブツはてんやわんやでした。翌朝先生が部屋に見当たらなくて、大騒ぎになりました。やっと調理場の奥で、エプロン姿でポテトの皮をむいていらっしゃる先生を見つけて仰天するわれわれに、『食べるんだから仕事をしなくちゃ』と先生は笑っておっしゃいました。……それから、コルチャック先生は、ギルボア山の見える芝生で、よくお話をしてくださいました」

    <失意-1936年>
    コルチャックはパレスチナから帰ってきて間もなく、1年前からはじめて大好評の子ども向けポーランド放送「老博士のおはなし」が放送中止。また、ポーランド人孤児院「僕たちの家(ナシュドム)」の解任があった。理由は明記されなかったが、当時ヒットラー台頭後は、ヨーロッパ全土に吹き始めていた反ユダヤ運動が原因だった。

    <コルチャックは友へ手紙を書く>
    「私は、この苦しい現状に対する抗議として、もしくは逃避としても、パレスチナへ去ることはできない。もう2、3年留まり、できる限りをつくしてみたい」
    怒りを抑える苦痛はやがて去っていく。だが、悪はととめもなく広がっていく。

    20. 青少年パイオニア運動と

    みにくい反ユダヤの嵐のなか、以来50年、ユダヤ人の間での交流、福祉、教育を目指した青少年パイオニア運動「ハショメール・ハツァイール」が広まった。当運動は、以後ユダヤ難民救済、ヨーロッパ脱出に大きく貢献することになる。

    50周年を記念して

    25周年記念の日、15才だった誰かは,もう40才だ。
    短い期間での作業、模索、試み、失意と希望。年を重ね、歩みを重ねるのだ。次の50周年記念日に諸君の息子が、娘が前に立ち、諸君を直視する。
    どんな新しい途を彼らのために開いたか、どんな門出か、どんな仕事か、いかなる真実を追求したのか、と。
    (ヤヌシュ・コルチャック/パイオニア新聞記事/ワルシャワ1938年)

    21-22. 第二次世界大戦勃発/ワルシャワ陥落

    1939年9月1日、前ぶれもなくドイツ軍はポーランドに侵攻し、第二次世界大戦の黒旗が落とされた。瞬く間にワルシャワ近郊まで迫ったドイツ軍の砲弾が降る中、よれよれのポーランド軍将校の軍服を着、瓦礫の中を負傷者救済に奔走するコルチャックを人々は見た。また、市民のモラル向上のため、ワルシャワの防衛の特別放送「危機に臨んで」が流された。

    彼の孤児院は三週間の包囲攻撃中、七発の爆弾を受けたが、幸い死傷者は無く終わった。戦火の中をぬってコルチャックは、孤児院の食料を調達し、以前解任されたマリナ女史のポーランド人孤児院へも食料を届けた。

    ■ヒットラー台頭/1932年
    『我々は神の民である。今二つの世界が相面している。神の民と悪魔の民! ユダヤは反人間でサタンの民なのだ! やつらは人類のどの根からでたのか。世はアーリア民族とユダヤ民族を対決させよう!! 』 (アドルフ・ヒットラー「我が闘争」)

    ■狂人達の議会上演/1932年
    1931年、コルチャックは当劇をワルシャワのエスニオス劇場で上演した。当劇を通して博士はナチ台頭、社会的・精神的残虐に脅かされる世界を提示した。不幸なことに、その恐るべき予見は実現した。

    こうなのだ。3つの戦争と3つの革命とを生き延びた自己中心の老人のテーマ。私の見るかぎり、ここで表現されたことは何一つとして満足できるものではなかった。現実的で抜け目ない若者が、純心を振り捨てながら権力の階段を登る。だから私は、ロシア革命についても興味はなかった。そこには残酷さ、狂気、暴力とムチ打ちによるヒロイズムだけがあったからだ。ドイツも同じことだ。(コルチャック「思考と感じ方」)

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    30. 死への旅立ち

    <1942年8月6日>
    1942年1月、ベルリン近郊のヴァンゼー会議にて、アイヒマンやハイドリッヒを含むナチスの指導者は「ヨーロッパにおけるユダヤ問題の最終解決案」を協議。

    1千百万人のユダヤ人絶滅計画を直ちに実行に移すことを決定。

    同年7月22日付で、「東部安全地帯への移住」と称してワルシャワ・ゲットーからトレブリンカ絶滅収容所へのユダヤ難民強制移送が始まる。

    同年8月5日、数度の助命を振り切り、孤児たち200余名とトレブリンカへ同行し、非業の死を迎える。コルチャック64才。ステファ56才。

    ゲットー内すべての孤児院の解体命令が出されたその朝、この日のために用意されていた晴れ着を着た200名の孤児たちは、幼女ロムチアを抱き、少年の手を引いたコルチャックと、ホームのシンボル「希望の旗」を掲げた少年を先頭にして、4列隊を組み、ホームから移送集合地のダンツィヒ駅までの2.5キロの道のりを、整然として行進して行った。

    29. ゲットーの中では

    たぶんもう死んでいると思われる若者が、道端に横たわっている。同じ場所でお馬さんごっこをして遊んでいた3人の子どもたちのロープが、からまってしまう。

    子どもたちは口論しながらロープをほどこうとするが、うまく行かず、やけになって横たわる若者を蹴り動かそうとする。

    ついに一人が『行こう、こいつがじゃまだもん』と口走る。皆は、若者から少し離れたところへ移り、ロープをほどき続けている。

    27-28. 死の王国・ワルシャワゲットー

    <1939年11月23日>
    ドイツ軍ワルシャワ司令官、ハンス・フランクは、当軍直轄下の10才以上のユダヤ人男女全員に12?幅、白地の布にダビデの星の腕章を付けることを命令。当腕章のなきものは捕えられ、射殺が命じられた。

    1940年初期から、ドイツ軍命令によってワルシャワ中心部近くの広さ約4平方万キロの地区に、高さ3mの壁で囲ったゲットーが建設された。

    1940年11月上旬、壁の完成とともに、コルチャックと200名の孤児を含めた約50万人のユダヤ人が、ワルシャワ及び近郊から強制的に当ゲットー(通常5万人の住居空間)に押し込まれ、外の世界とのコンタクトを断ち切られた。直ちに飢餓地獄が始まり、餓死する者、また、感染病で死ぬ者が続出した。

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    ドイツ占領軍へ提出したコルチャックの医療関係者用身分証明書

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    ユダヤ人を区別するために強制的に付けることを義務付けられた布製ダビデの星

    21-24. ゲットー日記のはじまり

    1939年9月1日、突如ドイツ軍はポーランドに侵攻、第二次世界大戦の黒旗が落ちた。
    コルチャック先生は、旧ポーランド軍服に身をかため、ドイツ軍による陥落直前の爆撃、砲火に燃え上がるワルシャワ市中を奔走し、負傷者救済に手をつくした。また、市民のモラル高揚のため、防衛特別放送で「危機に臨んで」を放送する。
    孤児院には、7発の爆弾が命中した。しかし、死者は無かった。
    1939年9月28日、ワルシャワはドイツ軍によって占領され、またたく間に住民の生活が困難になる。

    私はいつもの「巡回」から、またぐったりとして帰った。7か所の訪問、会談,7つの階段、7回の質問攻め。結果は ???ズロッチの寄付と毎月同額の支払い約束。これでどうやって200人もの子どもたちを生かせるのか!服を着たままベッドに横たわる。
    暑く、乾いた風が吹く第一日目だ。眠れない。そうだ、9時にはいつもの「教育的ミーティング」があるのだ。(ゲットー日記より)     

    キザなお伺いなどごめんだ。私は物乞いに行ったのだ。金、食物、ニュース、アドバイスをうけるために。それはわずらわしく、屈辱的な作業だ。
    特に、人は他人の苦しい面をみたくないので、私は自分の感情を押し殺さなければならない。(ゲットー日記より

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    31. トレブリンカ絶滅収容所

    写真上:コルチャック先生と子どもたちが貨車で送られたトレブリンカへの鉄道引込線(1960年代)

    写真下:戦後ポーランド政府によって作られた、トレブリンカ絶滅収容所跡のモニュメント群。約70万人のユダヤ人の大人、子どもたちがこの下に眠っている

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    33.
    コルチャックの森

    イスラエルのキブツにあるコルチャックの森で記念碑を守るレオン・ハラリ氏(1995年死去)

    私の家は貧しく、父は働くことに追われて全く父子の会話がありませんでした。そんな私に、コルチャック先生は、『小評論』の子ども編集長の仕事を与えてくれました。そして、以来いつも私の苦しみや悩みに耳を貸してくれました。いわば、コルチャック先生は、私の父といってもよい人でした。」(レオン・ハラリ*)

    *レオン・ハラリ氏は、第二次世界大戦直前にパレスチナへ移住。エルサレム近郊のキブツ、マアレハミシャの創立者の一人である。

    34. コルチャックの「子どもの権利の尊重」

    国連「子どもの権利条約」の成立に及ぼしたコルチャックの理念

    1959年の国連での「子どもの権利に関する宣言」、および1989年に国連で制定された「子どもの権利条約」(日本は1994年に批准)には、コルチャックが子どもの立場から主張してきた「子どもの権利の尊重」の理念が深く影響しているといわれております。以下は、コルチャックの考えを抜粋したものです。

    子どもは愛される権利をもっている。自分の子だけでなく、他人の子どもも愛しなさい。「愛」は 必ずや返ってくる。

    • 子どもを一人の人間として尊重しなさい。子どもは「所有物」ではない。
    • 子どもは未来ではなく、今現在を生きている人間である。十分に遊ばせなさい。
    • 子どもは宝くじではない。一人ひとりが彼自身であればよい。
    • 子どもも過ちを犯す。それは、子どもが大人より愚かだからではなく、人間だからだ。完全な子どもなどいない。
    • 子どもにも秘密を持つ権利がある。大切な、自分だけの世界を。
    • 子どもの持ち物や、お金を大切に。大人にとってつまらぬ物でも、持ち主にとっては大切な宝。
    • 子どもには、自分の教育を選ぶ権利がある。よく話を聞こう。
    • 子どもの悲しみを尊重しなさい。たとえそれが失ったオハジキ一つであっても、また死んだ小鳥のことであっても。
    • 子どもは不正に抗議する権利を持っている。圧制で苦しみ、戦争で苦しむのは子どもたちだから。
    • 子どもが自分たちの裁判所を持ち、お互いに裁き裁かれるべきである。大人もここで裁かれよう。
    • 子どもは幸福になる権利を持っている。子どもの幸福無しに、大人の幸福はあり得ない。

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    展示会を見ていただきありがとうございました。

    もしよろしければ、感想やご意見などいただければうれしく思います。

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    写真の中の絵は、イッツアック氏(画家)が当時を思い出しスケッチしたもの
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